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宗教というより経済の問題

葬式と仏教が結びついたのは、宗教というより経済の問題なのだ。実際、葬式を仕切っていたのは寺ではなく、「葬式組」などと呼ばれる村落共同体の中のグループだ。棺や葬具をつくる、死装束を縫う、炊き出しをする、棺をかつぐ、墓穴を掘る。そんな裏方のすべてを葬式組は担っていた。葬式が共同体にとっていかに重要だったかを示すのが、村の掟を破った家とのつき合いを断つ「村八分」だろう。八分のつき合いを断つとして、残ったつき合いの二分は、火事と葬式だという説、労役と葬式だという説、いろいろだが、ともかく二分のうちの一分は葬式だ。遺族が何もしなくていいように、すべての仕事は葬式組がやる。そのかわり次の葬式では手伝う。相互扶助の固い掟が村にはあった。こうしたグラスルーツの葬式に、寺はいわば後から割り込んだのだ。日本の葬式には、だから仏教が割り込む以前の習慣と、仏教が開発したルールとがまじりあっている。一八六八(明治元)年の神仏分離令によって廃寺が続出すると、残った寺は生き残りをかけ、ますます葬式と法要に精を出すようになった。一方、人々の側にしても、昔は大家族だったし、人もよく死んだ。需要と供給の関係が、そこでは成り立っていたのである。

「弥勒の世」が将来出現することはいつも期待されている

石川県奥能登地方では、ちょっとした冗談ロで、「お前のような奴は、弥勒の世になっても借金を返すまいから貸さない」とか、「お前のような奴は、弥勒の世でも来ればいざ知らず、そうでもなければ金を貸さない」などと言う。また借金証文を書くときに、「弥勒の世が来たら返すと書こうか、立山に麦が生えたら返すと書こうか」といやがらせを言ったりした。同様に「こんなうまいことは、弥勒の世にもないことじゃ」というのもある。仏教経典では弥勒の世がやがて実現するという時には、人間の寿命が八万歳になっていたり、金銀財宝が豊かなユートピアが現出すると説いている。奥能登地方の民間伝承は、遠い未来のユートピアといった程度の幻想に過ぎないが、仏教的弥勒信仰にモデルがあって、それが現実化した場合の一つのイメージである。そうした夢想された長寿のユートピアが描かれているけれど、それ以上の生活がどのように変化するかという具体的イメージには欠けている。ただ漠然とではあるが、「弥勒の世」が将来出現することはいつも期待されているのである。

業務をスムーズに進めるために

上司や先輩と情報を共有すること「これを○○さんに届けておいて」というものから「あの人を紹介してほしい」「何日までにプレゼンの資料を作っておくように」まで、上司からの命令や取引先からの依頼はさまざま。それに応えていくために、まわりの人と情報を共有することは欠かせない。組織で働く心構えとして、新入社員研修でかならずと言っていいほど言われるのが「ほう・れん・そうを忘れるな」。この「ほう・れん・そう」は「報告」「連絡」「相談」を指している。仕事にとりかかり、少しでもわからないことや困ったことがあれば、先輩や上司にまずは「相談」。そのタイミングは「早めに」が肝心だ。一人で抱え込んでギリギリになって相談しても、相手が対応できないこともある。そして仕事の進捗状況は常に「連絡」。自分では気づかないことでも、経験を積んだ上司が状況を把握し、判断することで大きなトラブルを避けることができる。また「これをコピーして配っておいて」「はい」で命令をこなすだけでは仕事は未完了。「コピー○部配布終了いたしました」という完了報告までがワンセットと考えよう。忘れがちだが、相談をしてアドバイスをもらったときの結果報告も必須。相談された相手は結果を聞くまでは区切りがつかずに不安なのだ。いつも「あの件どうなった?」と聞かれているようでは、仕事のできないヤツと判断されても仕方ない。「○○さんのおかけで、今取引先ともうまくいっています。相談にのっていただき感謝しています」と相手の立場を考えてねぎらうことでコミュニケーションも生まれる。まずは結論を先に示すこと。